昭和の頃⑤ー「明治屋」
昭和50年代の「京橋」は、貝殻を仰向けに返したような、大きな面の街だった。
その京橋の街を地引網のように広げて、東京駅八重洲口の駅ビルが大きく存在をアピールしていた。大丸百貨店を包み込み、幾本もの新幹線を飲み込むように、丸の内側のクラシックな赤レンガ駅舎とは対照的に、近代的な大きな袴の様相で天空に聳えていた。その袴は、永代橋通りや昭和通り、新大橋通りのどこからも眺めることができ、当時は東京の中央区のシンボル的存在だったように記憶している。
この八重洲口からの網は、京橋、日本橋へと地下にも広がり、長大な商店街、駐車場へと蜘蛛の巣のように立体的な街を形成していた。その地下商店街を数百メートル東に永代通りと平行して歩き、地上に上がる。その瞬間に、京橋のほのかなスイーツな香りに包まれる。当時この町には、いつもこうして降り立った。そしていつもそう感じた。銀座から新橋方面に向かう広い中央通りが開放感とともに、京橋の暖かいオレンジの風を運んで来るようだった。
時には風に誘われて時には風を切って、この中央通を日に何回もタテにヨコに歩き、プレゼンの成否に一喜一憂し、さ迷い、喜びに浸り歩いたことも。アポを取るために、スタッフとの待ち合わせに、時間調整に一日中待機したりして、この町と暮らしていた時も。
昼や夕のオフタイムになると、この町は民族の大移動と豹変する。昼食時のすし屋の席取りや雀荘の予約も我々の仕事の一部だった。何に付け「ちょっとした」ことが、プレゼンの成否に影響すると思っていた。喫茶店の空気は何処もタバコ色、雀荘は深夜まで煙のチェーンだった。タバコの煙もバブルの泡に巻かれていた時代だった。
昭和50年代ここ京橋界隈でボクも、仲間やライバルも、コピーライターやデザイナーも一喜一憂し、毎日走っていた。喫茶「いこい」で、作戦会議やら仮眠やらで英気を養いくつろいだ。プレゼンに成功したら、明治屋の地下にあるレストラン「モルチェ」でハヤシライス、が我々スタッフのささやかな夢だった。
その「ハヤシライス」は当時も今も、30年変わらぬ味と、同じ価格の、900円である。
※LPレコード資料の提供:SHOP伝承堂
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コメント
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こちらより、相互リンクしていただけると嬉しいです。
まだまだ、未熟なサイトですが、少しずつコンテンツを充実させていきたいと思ってます。
突然、失礼しました。
mYz3y65u
投稿: hikaku | 2009年5月 1日 (金) 01時15分